イタリアには8,000キロメートルにも及ぶ海岸線があります。
しかし、最も美しい海岸線へは車では行けません。
陸路はなく、海路のみが通じる場所。
その「船上で過ごす夏」とは、ひとつの美学なのです。
静かな入江に錨を下ろし、朝食前に海へと飛び込み、そして3時間かけてゆったりと昼食を味わう。
それがイタリアのボートサマーです。
イタリアの海には、ビーチクラブには一切近づかずに過ごすもうひとつの夏が存在します

風が吹き始める前の静けさの中、早朝の港からその旅は始まります。
船が宙に浮いているように見えるほど透き通った海に到着したら錨を下ろし、短い旅は終わりを迎えます。
時にはチャーターしたセーリングヨットで。
家族代々のモーターボートで。
あるいは自家用車よりも長く家族と共に歴史を刻んできた木製の「ゴッツォ(伝統的な木造船)」の上で。
あらゆるイタリア人が、各々の夏を水の上で楽しみます。
そして彼らには、たったひとつの揺るぎないこだわりがあります。
「船に乗る目的は、マリーナにとどまることではない。マリーナにいる人々が辿り着けない、あの静かな入江(ケーヴ)へ行くことなのだ」と。
「アンカー・アウト(沖繋ぎ)」という美学

船上での経験が豊かなイタリア人に「8月はどこで過ごしたの?」と尋ねてみてください。
彼らは決して港(ポート)の名を挙げたりはしません。
代わりに口にするのは「海」の名前です。
島の北側に広がる入江、白い砂の上に広がる花崗岩のアーチ、そしてアンカーチェーンをおろした船の上でゆらゆらと揺れながら、ハルヤード(ロープ)がマストを叩く音や、岸から響くセミの声を聞きながらくつろぐーそんな場所の名を挙げるのです。
そんな彼らにとっては、マリーナは食料を補充し、たまに外食を楽しむためだけの場所。
夜は沖合に下ろした錨の上で過ごします。
そこに集うのは、自分と同じ「秘密の場所」を見つけ出した者たちだけ。
そして朝はコーヒーを入れるよりも先に、まずは海を楽しむところから始まるのです。
目の前に最高の海が広がっているのに、飛び込まないなんて野暮なのかもしれません。
船乗りたちが目指す場所

彼らの間で、クルージングの「聖地」としてとても有名な場所はいくつかあります。
サルデーニャ北海岸とマッダレーナ諸島では、ピンク色の花崗岩でできた島々が、カリブ海と見紛うような写真映えする透明度を持ちながら、いかにも地中海らしい海の中に浮かんでいます。
トスカーナ諸島(エルバ島、ジリオ島、ジャンヌートリ島)は、本土から気軽に航海できる絶好のロケーションでありながら、過小評価されてしまっている穴場です。
ポンツァ島とその姉妹島には、かつてのローマ皇帝たちが掘らせた洞窟(グロット)が今も残っています。
ここでは、スイマーたちが思い思いに水泳を楽しみます。
そしてシチリア沖に浮かぶ7つの火山島、エオリア諸島。
真夜中にデッキチェアに腰かけながら、ストロンボリ島の夜空へ噴き上がる火花を眺めることができる場所です。
もちろんこれらの場所はすべて、陸路からは見ることのできない景色です。
そこに行くための道は水の上にあるのですから。
何も所有する必要なんてない

「船上で過ごす夏」と聞くとどこか敷居が高く感じられますが、実際にはずっと身近で、誰にでもひらかれた世界です。
有名な海岸線にあるすべての港では、伝統的な木造船「ゴッツォ」のデイチャーター(日帰り貸し切り)が運行されています。
もともとは横幅が広く安定感抜にあるのですから群の地中海の作業船だったゴッツォも、今ではふかふかのクッションと日よけサンシェードが備え付けられ、あらゆる洞窟(グロット)を知り尽くしたスキッパー(船長)が、あなたが泳ぎたいと思う限りいつまででも錨を下ろして待ってくれます。
1日チャーターする費用は、ポルトフィーノで4人が夕食を食べるよりも安い上に、「船旅の醍醐味のすべて」を体験することができます。
海から眺める美しい海岸線、陸からは辿り着けない秘密の入江、そして船べりに足をのせて味わう船上での昼食——そのすべてを体験できるのです。
船上のパントリー(食品庫)

船上での料理には、最高の「洗練された規律」が存在します。
オーブンはなく、料理に時間はかけられない。けれど、お腹はペコペコ。
この条件に対するイタリア人の答えが、出港前にしっかりと一週間分の食料が詰められた「船上パントリー」です。
オリーブオイル漬けの極上マグロのトロ身(ヴェントレスカ)。
タッジャスカ種のオリーブ。パンテッレリア島産のケイパー。
そしてフリセッラと呼ばれる、輪っか状の二度焼きしたパン。
そのままでは硬くて食べられないこのパンに、海水のように冷たい水をひとふりし、完熟トマトを乗せて押し潰しながら食べます。
そのほかにも、グリッシーニ、アンチョビ、そして船底の涼しい場所でさらに味わいを増すホールサイズのペコリーノチーズ。
パントリーのささやかな食材たちから生み出される昼食は、陸のどんなレストランで食べる料理よりも美味しく感じられます。
技術なんて一切関係ありません。
すべては、心地よい潮風を浴びればうまくいくのです。
船上で味わう、たったひとつの至高のパスタ

船上での料理にはさまざまなものがありますが、そのあらゆる伝統が最終的に行き着く「最高の一皿」が存在します。
それこそが「スパゲッティ・コン・ラ・ボッタルガ(カラスミのスパゲッティ)」です。
グレー・マレット(ボラ)の卵巣を塩漬けにして凝縮させたカラスミは、いわばサルデーニャ版のキャビアのようなもの。
それをオリーブオイルとニンニク、少量の茹で汁を絡めたパスタの上に削りかけます。
コンロはひとつ、必要な時間はわずか10分。
フレッシュな生鮮食品など何ひとつ必要ありません。
にもかかわらず、それは海の旨味をそのまま凝縮させたような味わいです。
カラスミは夏の間も日持ちするため、地中海でアンカーを下ろして過ごす多くの夕食を、どんな料理よりも救ってきました。
デッキで傾ける、至福の一杯

イタリアの夏、船のデッキで味わうべきワインといえば「ヴェルメンティーノ」です。
とりわけ、花崗岩に覆われたサルデーニャ北部の銘柄「ヴェルメンティーノ・ディ・ガッルーラ」は、海辺のように心地よい潮気と眩しい輝きを放ちます。
そんなクーラーボックスの中でヴェルメンティーノと肩を並べるのは、淡いピンク色のロザートや目的地への到着を祝うスパークリングワイン、そして私たちの想像以上に大量のミネラルウォーター。
アペリティフは太陽がマストの先端に触れた瞬間に始まり、夕日が沈む西を向いてグラスを掲げます。
それが船上アペリティフのルールです。
別世界を垣間見る

コスタ・スメラルダの華やかな港、ポルト・チェルボを訪れる夜は、オペラハウスに足を運ぶのと同じような価値があります。
すなわち、絢爛豪華な「観劇(スペクタクル)」として楽しむということです。
岸壁に船尾を向けずらりと並ぶスーパーヨット。
黄昏時にデッキを磨き上げるクルーたち。
そして地中海の極上のシーズンが織りなす一大劇場。
その圧倒的な光景に感嘆し、高価な一杯を楽しんだら、あとは自分たちの静かな繋留地(アンカレッジ)へと戻りましょう。
そこでは月が夜空を照らし、真夜中の海は夏の空気よりも温かくあなたを迎え入れてくれます。
「9月」という秘密

スキパー(船長)たちに「一番海へ出たい時期はいつか」と尋ねれば、誰もが口をそろえて「9月だ」と答えます。
チャーター船の混雑は引き、静けさを取り戻す入江。
海はひと夏分の太陽をたっぷりと蓄えて一年で最も温かく、やわらかな光はヴェルメンティーノの白ワインと同じ琥珀色へと変わっていきます。
結局のところ、「船で過ごす夏」を最も長く深く味わえるのは、その最高の瞬間をじっと待っていた人々だけなのです。
TEXT/ITALIAKARA
※この記事は、イタリア文化のスペシャリストの監修がされています。